昭和五十七年七月七日 朝の御理解
御理解 第七節
「天地金乃神は昔からある神で途中から出来た神でなし天地は流 行る事なし流行る事なければ終わりもなし天地日月の心になる 事肝要なり信心はせぬでもおかげはやってある」
昨日、遠方に御親戚のある方が癌というので、その事のお届けがございました。それで、ま、癌と聞いたら、現在の医学では、ま、死 刑の宣告を受けたように思う。 そんな大変な病気だそうですが、就いては、本人に何か一言いうてやりたいと思います。日頃、おかげの泉なんかを読んでおられるお方ですから、親先生のお言葉を一言何か言うてやりたいからというお願いでありました。
したら、神様から“癌は合楽理念による他なし”と頂きました、ね。例えば、商売は合楽理念をもってする他ない。百姓は合楽理念をもってする他なし、と言うふうに申されますが、ね、いわゆる、ま、 現在医学では、まあ、大変むつかしいと言われるその癌、ね、御理念に基く他なし、とこう、だから、本当に合楽理念に基づいた信心によって、健康管理を願う、という事になれば、どんな病気でもおかげがいただけるという感じであります、ね。癌は合楽理念、いわゆる御理念をもってする他なし。どんな場合であっても、私共が、いよいよその御理念の実験実証と共に、いよいよそれを御理念による行き方というものが、いよいよ身につくおかげを頂きたい。
昨日は、丁度四時の御祈念に入ろうとしております時分から、お湿りがありだしました。本当に待望のおしめりですから、その事を神様に心からお礼を申さして頂いておりましたら、今はもう、あんなものを履く人はありませんけれども、高ぽこり、雨の降る日に履く履物です。たかぽくりを履いた人が歯が欠けておる、だからクリクリして、こう歩きにくい。又、雨の為にすべりだんせんか、という感じの所を頂いて、はあ、成る程、私共の信心が不行届きの事だなあ、と。
実意丁寧 神信心と言うわれるが、本当にこれは、特に取次者として思わなきゃならん。 ただ、お願いが成就した。おかげでおしめりがありだした。ところが、おしめりの為に転ぶ人があるかも知れん。それは欠げておるから、ね。んなら、お互いの、信者一人一人の事を思うて、この人は完璧というような人がある筈は、思われんし、ね。そこもお粗末、ここも御無礼、また、ここも欠げてはおりますけれども。これは取次者として、そういう、なら、転ばんように、すべらんように、ただ、おしめりがあって、ああ うれしや、と喜んでおる事を、御礼を申し上げるだけではなくて、そのおしめりによって、今度は困るという人も、またある、という事である。だから、その、困る人の上の事までも願え、と頂いて、もう改めて、ね、成る程、今日の御理解から言う、天地日月の心になる事肝要、と仰せられる、ね、いうなら、これは、信心の完璧を表現したものでしょうね。
天の心も限りなく美しう、しかも いさぎよく、地の心と言えば、もう、いわゆる黙って治める、とか、成行をいよいよ尊ぶ、という事に徹する、という事が天地の心なら、ね、いわゆる、日月の如くも比類のない実意丁寧神信心、とう事がなされる。それが、もう、本当に身についてしまうという事なんだ、ね。また、それをめざすという事、それが、とりもなおさず生神を目指す、という事、ね。これで充分、これで良いという事はない、ね。
昨日、私はそんな事を頂いて、本当に改めて、今日は結構なおしめりを頂いて、皆が待ち望みに望んでおるおしめりを頂いて有難い。ところが、その有難いおしめりの為に、またおかげを落とすような氏子がおってはなりません。どうぞ、欠げておるところだらけではございますけれども、また、すべりませんように、転びませんように、と言うような祈りが、ね、私は、天地日月の心とは、そういう行き届いた心の使いかただと思いますね。
私共の信心の、ま、一生懸命お参りをしておりますと、お話を頂いとります、その行き方の中にです、ね、ま、昨日の御理解で言うならば、昨日の御理解は大変な難しい御理解でしたからね。あの御理解、神を杖につけば楽じゃ、というのは、も、いうなら、今日の御理解ぢゃないけれども、ま、完璧な信心になるという事ぢゃなくて完璧な信心を目指そうという、その意欲からしか、昨日の御理解はわからないと思いますね。
そりゃね、御信心頂いとりますから、本当、いざという時には、お取次を頂いて、おかげを頂くから、また、いつも、ま、いうならば、ここで、なら、親先生の祈りを頂いて、祈りの圏内におきて来る事だからと、ま、安らいぎもすりゃ、喜びもあるし、ね。ま、そういう程度の事も、やっぱ、神を杖についとるおかげなんだけども、ね、昨日の御理解は、ね、これは、も、完璧な、どんな場合であっても楽な心というもの。もし、楽でないならば、その、まだ信心が欠げておるんだと悟れというのが、昨日の御理解でしたね。それは、ね、丁度、昨日は、行橋地区の共例会を、みんな昼の御祈念に参って来ますから、昨日はここで共例会を致しました。 共例会が終わってから、久留米の佐田さんだったでしょうか、もう丁度、神様から教祖様が受けられた立教神伝と同じ内容の事を、お知らせを頂いて丸十年になります。それが、昨日、たまたま共例会の時に話が出て、福岡の伊藤さんがそれを受けられた。久留米の佐田さんが受けられたあのみ教えを頂いて、十年になりますが、果たしてどれほど、あの願いにこたえ奉る信心が、出来ておるだろうかと思うて、相すまんと思います、という意味のお届けがあったんです。 いや、佐田さん今日の御理解はね、昨日の朝の御理解はね、神を杖につけば楽ぢゃ、というのは、教祖の神様が、ね、それこそ、ね、百姓しておるその者に、百姓をもうやめてしまえとおっしゃる。家内は後家になったと思うて、とこうおっしゃる。普通でなら、とても出来る事ではない事を、神様が平然と言うておられる。それをまた、平然と畏り受けておられるのが教祖の御信心。あれが立教神伝です、ね。
私共の一人一人が、その立教神伝を受けるような気持ちになった時に、本当の意味での、神を杖につけば楽ぢゃ、という私の都合、私中心ではない信心から、ほんとうの神を杖につけば楽ぢゃ、というおかげが受けられるんだという、ね。
ほう、あのお知らせを頂いて十年になりますか、ね、本当に教祖様がお受けになられたように、ね、あヽいう気持ちになって信心がすすめられるという事を、その手立てとして、合楽では天地日月の心を説くのです。だから、どうしても、天の心、地の心を、ね、頂いて、それに焦点を、そこに置いて、これは天の心である、ここは地の心で受けなきゃならん。これは、例えば、あヽきつい、とか、自分の都合なんかある時もありましょう、けども、自分の都合を言うのぢゃない、神様を中心にする、いわゆる、神様本位の信心を貫かしてもろうて、日月の心の信心が出来る、といったように、ね。 も、そこに極まったのですから、それに極めていこうとする精進こそが、ね、天地日月の心を、例えば、これは、もう、ま、いうならば、現在の医学では、どうにも出来ないという病気でも、です、ね昨日、私が頂いてから頂くのは、ね、癌は御理解をもってする他なし、と頂いた、ね。例えば、そういう病気でも、ね、御理念による、いうなら、行き方で助かるのですから。いよいよもって、その御理念を、自分の血に肉にしておかなければならんという事がわかりま す。その、いうならば、行き届いた信心というか、その内容の中には、これは、私も気がつかなかったけれども、はあ、も、今日は、長い間おしめりの事を願って願って願った。
いうなら、おかげが、いうならおしめりがありだした。しっとりとしたおしめりを頂いた時に、本当に有難い、うれしや、という心で御礼を申し上げたら、そのおしめりの為に困る人、おしめりの為にすべったり転んだりする人、それは、その一人一人の氏子の心の中に欠げたものがあるから、ね、そこん所をお詫びをし、そこん所を願ってやらなければならん、という事を頂いて、成程、自分達の信心が天の心、地の心を頂きよるようにあるけれども、日月の心という事になると、欠げておる事に、また、改めて気付かせて頂いたのであります。
もう限りがないですね、金光様。だからこそ、なら、私共が魂の世界に、ね。この世で出来なかったところは、魂の世界ででもそれを頂き続けて、いわゆる、神になる事を楽しみに信心せよ、と仰せられるような信心ができるのです、ね。
ですから、その、魂の世界に入ってでも、その精進が続けられる、その基本になるもの、根本になるものだけは、知っておかなければならない。また、それを行じて、それに取り組んでおかなければならん、と、いう事を思います、ね。
「 どうぞ 」